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東日本大震災に寄せて

画像 2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した。その地震による大規模な津波はさらに被害を大きくし、死者行方不明者1万8千余名、建物損壊約40万戸など甚大な被害をもたらした。あの日から三年が経った。

画像画像 地震発生の時、ほとんどの人がそうであると思うが、私は年度末の仕事に追われディスクに向かっていた。そんな時、今までに経験したことのない大きな揺れがビルを揺らす。揺れが結構長い、これはただ事でないなと直感。どこが震源であるのか、この揺れの大きさから、震源は近いと考えるのが普通だが、テレビから流れる地震速報は、震源は東北地方の太平洋沖、マグニチュード8.0程度(後日9.0に訂正)、震度は7と伝えている。その後、テレビの映像は見たこともないような、まるで映画の一場面ような津波の映像を映し出している。室内の誰もが固唾を呑んで食い入るように画面を見ている。私は、体中の血の気が引いていったのを覚えている。

 発災から2週間が経った頃、職務命令により3月25日から二日間の予定で、同僚2人と被災地へ行くことになる。現地の宿泊施設はライフラインが完全でないことや食料が十分に確保できないなどの理由で、宿泊客を十分に受け入れることができないらしい。そのため車には、即席麺、カセットコンロ、水、寝袋、衛星携帯電話、電池などの他、燃料の給油が怪しいとのことでガソリンを満タンにした携行缶を二つ荷台に積み出発する。新潟を経由し、磐越道、そして東北自動車を北上し、長野を出て8時間後に岩手県滝沢村(当時)に着いた。高速道路は、発災後2週間が経過したこともあり多少のクラックもあったが、特に問題なく通行することができた。ただ、噂どおりサービスエリアの給油所はどこも長蛇の列と給油制限が行われていた。

 初日の宿泊場所は、盛岡市内で幸いにもビジネスホテルを確保できた。なお、食事はなく、お湯も使えない本当の素泊まり。でも屋根のある場所において布団で寝れるならここでは贅沢である。ホテルの紹介で、ある居酒屋なら食事ができるとのことで、その居酒屋を訪れ食事を頼んだ。食事中に震度4程度の余震があり動揺するが、実際は何もすることができない。

 二日目、昨日は暗く良くわからなかったが、地震の揺れによる被害もいたるところに確認できる、給油所は閉まっているところが目立つ、開店中の店には長い車の列が出来ている。また、停電などによりクレジットカードは使えないため現金取引が基本となる。コンビニには、即席めん、弁当やおにぎりなどの食事、たばこは一切並んでいない。ただ、水や清涼飲料水は問題なく購入できた。

 内陸部から三陸海岸部へは雪の残る峠道を越えなけれなならない。普段なら浮つく海の見える風景だが、言葉を失う惨状がそこには広がっている。ほとんどの入り江や湾部は津波で壊滅状態だ。車から降り呆然とし立ちすくむ。何もかも津波がさらってしまったのだ言葉が出ない。
 世界有数の防波堤があった宮古市田老地区の市街地も、ホテル一軒が残っているだけで、見渡す限り泥で覆われた平地が海岸まで続いている。がれきが積みあげられたところでも、まだ十分な捜索も行われていないようだ。ヘドロのような異臭も鼻をつく。
 震災による津波は、三陸地方独特の地形が災いし、40mの高さにも及ぶ波となり集落を襲い、人命や家屋を破壊していったのだ。海水に浸かって息絶えた方、孤立し食料や水がなく衰弱死した人、医療の手が及ばなかったり医薬品がなく病死した人、そして未だに行方が分からない人の多くは沿岸部に集中した。また、ご遺体が帰っても、火葬場の損壊や火葬燃料が無く火葬が出来ないご遺体、霊柩車の燃料がなく火葬場まで運べない、棺が足りないなどの話も聞いた。まったく想像を超えた状況が生まれていたのだ。地震は怖い。

 町長以下幹部が対策会議中に津波に襲われ命を落とした大槌町は、津波による損壊と火災の延焼によるものとが入り混じっていた。特に役場周辺は悲惨な状況である。暗闇と時折舞う小雪がひとしお悲しみを誘う。

 山田町の避難所では、避難者の疲れ切った様子とあきらめ感、そこで支援活動をする医療スタッフやボランティアも言葉が少ない、みんな疲れているんだ。
 職務は延長され、明日宮城県入りすることになる。宿は、名取市郊外に確保することができたがここでも食事はない。

 三日目、仙台市内は揺れによる被害はあまり目立たないが、ライフラインは全滅のようだ。電気はすでに復旧しているが、都市ガスのため配管の点検が終わるまで供給ができないようだ。下水管の破損もひどく悪臭が漂う。仙台港へ向かうとここは津波の被害が大きい。車の配車場やトラックターミナル、鉄道の被害も確認できる。仙台市内は営業しているホームセンターもあるが、生活用品などはほとんど売り切れ、カセットコンロ用ガスは全く見当たらない。そして任務を終え帰路に着く。

 あれから三年が経つ。震災後仙台には3回訪れたがそれも震災後半年の間にだ。近いうちに訪れてその後の復興状況を自分の目で確認したいと思う。今は息子も仙台に住んでいるので、都合よく訪れたい。
 被災地の皆さんの御苦労は、私たちには本当の意味では分からないかもしれない。ご家族や知人を亡くされた方、ケガをされた方、家を失った方など被災された東北地方の方々の頑張りには敬意を表したい。亡くなられた方へは哀悼の意を捧げたい。私は、決して忘れないこの震災のことを、そこに暮らす人々のことを、、、。


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COMMENT
[1] ひ | 2014/03/12 06:07
全く同感です。未曾有の災害により被災、特に家族をいっぺんに失われた皆さんの無念は我々には計り知れません。まったく見ていることさ信じられない状況でした。
我が家でも家族で相談し僅かながらの義捐金を送りました。街頭募金以外にこういう経験がなかったのですが、自然と家族もうなづきました。
東北の皆さんの復興への謙虚な努力をニュースで接するにつれ頭が下がるばかりです。「東北魂」というのも本当に実感します。どうかみんなが故郷に帰って暮らせる状態に早く来ることを願っています。
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